赦すという事
赦し
赦せないという思いは、相手を裁くという事である。
そしてその判断を決して疑おうとはしない。
許さないという思いは心の扉を固く閉ざし、自ら作り出した投影を守ることになる。
歪曲した考えの上に幾重にも考えが覆い隠され、分からなくなってしまい、理性から更に遠ざかることになる。
そして自ら疑問を挟む事は難しくなっていく。
凝り固まった投影と、その投影がゴールとして選んだ目的の間には疑問さえ入り込む事ができなくなり、その心は閉ざされ、解き放たれる事は決してない。
赦したくないという思いは、さまざまなことをする。
自分が選んだ道を邪魔すると思えるものがあれば、それをねじ曲げ、くつがえし、自分のゴールを必死になって追求する。
その目的は歪曲することであり、それを達成するための方法そのものも歪曲である。
怒り狂って実相を粉砕しようとするばかりで、自らの見解に対立するものには一切関心をもたない。
赦すことができずにいる自分を正当化する為に1度手にした価値判断を手放す事ができない。
一方赦しはじっと静かにしていて何もしない。
実相のどの側面をも害することはせず、自らが好む外観へとねじ曲げようともしない。
ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
自分自身を赦そうとする者は、必ずありのままの真理を歓迎することを学ぶことになる。
赦しは心から、弱さ、緊張、疲労といった感覚をすべて取り除き、恐れや罪悪感や苦痛などすべてを取り去る。
傷つくことのない強さと力を、あなたが再び自覚できるようになる。
赦したくないという思いから生じる攻撃は、赦すという行為と取り替えられる必要がある。
死の想念は生命の想念へと取ってかわることができる。
あなたは攻撃するたびに弱さを招き入れ、赦すたびに強さを招き入れる事になる。
すべての赦しはあなたに対する贈り物なのである。
あなたは攻撃することによって自分のアイデンティティーを拒否してしまっているのである。
あなたのゴールは、自分が誰なのかを発見することである。